30年以上にわたって時計業界を取材してきたジャーナリスト菅原茂氏による、webChronosでの連載「スイス時間旅行−追想の90年代」。第6回は、ショパールだ。まだマニュファクチュールという言葉が時計業界に浸透していなかった時代に「L.U.C 1.96」を発表し、“本格機械式のショパール”へとブランドイメージを塗り替えていく過程を、菅原氏が撮影した写真とともに振り返る。
Photographs & Text by Shigeru Sugawara
[2025年4月10日公開記事]
ショパールのブランドイメージを塗り替えた自社ムーブメント開発
性能や品質で群を抜く自社ムーブメント「L.U.C」を軸に多彩なモデルを展開する現在のショパールだが、その出発点となった「L.U.C 1.96」の発表から来年で30周年。歴史はさほど長くないとはいえ、意欲的な開発によって、スイス高級時計における有数のマニュファクチュールに発展したのは紛れもない事実である。しかし、少なくともL.U.C登場以前のショパールというと、一般的な認知度でいえば、時計というよりは、時計も作るジュエリーブランドという印象だった。ショパールは、筆者がジュエリー誌の編集者だった1980年代からよく知っていて、誌面では1970年代からブランドのアイコンとなってきた有名なレディースウォッチ「ハッピーダイヤモンド」をよく取り上げていた。一方でメンズに関しては、イタリアで開催されるクラシックカーレースに関連した「ミッレミリア」くらい。そんな状況は1990年代に入っても変わらなかった。

1996年に開発された「L.U.C 1.96」を搭載して、翌1997年に発表されたのが「L.U.C 1860」だ。なお、2023年にこのL.U.C 1860を復刻したモデルが登場している。掲載写真は個人所蔵の個体。自動巻き(Cal.L.U.C 1.96)。32石(後に29石)。2万8800振動/時。パワーリザーブ約65時間。18KYGケース(直径36.5mm)。30m防水。
バーゼル・フェア96で自社ムーブメントL.U.C 1.96に出合う
バーゼル・フェアの時計見本市でショパールを訪れたのは、見本市取材3年目となる1996年。雑誌では100分の1秒の計測が可能なクォーツクロノグラフ「ミッレミリア1996」、ジュエリーウォッチ「ハッピースポーツ・クロノグラフ」、そしてフレデリック・ピゲ製ムーブメントを搭載した「トノー」(1993年発表モデル)や白血病救援基金のために製作された限定モデル「ホセ・カレーラス」などを取り上げた。この時、初めてお会いした当時まだ副社長のカール-フリードリッヒ・ショイフレ氏が、ぜひ見てほしいと私たちに披露したのが自社開発ムーブメント。創業者ルイ-ユリス・ショパールにちなむL.U.Cを頭に冠し、これに1996年に誕生した1号機を意味する数字を続けた「L.U.C 1.96」なのだった。
ムーブメントを手に取り、COSC認定クロノメーターの高精度でジュネーブ・シール取得、ツインバレル、マイクロローター自動巻きで約65時間のロングパワーリザーブなど、誇るべきハイスペックを自ら説明するショイフレ氏の熱心な姿は今でもよく覚えている。後年の取材で本人が明かしたのだが、1990年代初頭に“本格機械式のショパール”を目指して自社ムーブメントを開発したいと当時の社長で父親のカール・ショイフレ3世に相談したところ「なにも莫大なコストをかけて自社ムーブメントを開発する必要はない。スイスのムーブメント専門メーカーから購入すればいい」と猛反対されたそうだ。それでも断念せず、ムーブメントを自社で作り、機械式時計でショパールの伝統を再興することがいかに重要かを辛抱強く説いたそうだ。
スイス時計産業でも予想外の出来事
1990年代といえば、1980年代の終わりから兆した機械式時計の復興が本格化し、特に高級時計の分野ではそうした伝統色豊かなモデルがスイスのメーカーの間で競って作られたのだが、威信を誇る著名な老舗ブランドであっても、機械式のベースムーブメントやクロノグラフムーブメント、さらには複雑機構などを専業メーカーから調達することは珍しくはなかった。人気の的はジャガー・ルクルト、フレデリック・ピゲ(現ブランパン)、ヌーベル・レマニア(現ブレゲ)あたり。ミドルレンジのモデルではETAの汎用ムーブメントが大半を占めていた。搭載する機械式ムーブメントが、設計から製造まで完全自社製と言えるのは厳密には片手で数えられるほどしかないと考えられていた時代に、女性向けのジュエリーブランドに扱われていたショパールが自社ムーブメント、それも極めてハイスペックの高級機械式ムーブメントの開発に着手したのは異例なだけでなく、たぶんスイス時計産業でも予想外の出来事だったに違いない。
ショパール マニュファクチュールに行く
ショパールは、1990年代初頭の構想から3年の研究開発を経て「L.U.C 1.96」の完成にこぎつけ、1996年1月にスイス・フルリエにムーブメントの製造拠点を設立して、これを「ショパール マニュファクチュール」と名付けた。ムーブメントから自社で一貫生産する特別なメーカーを指す「マニュファクチュール」という言葉が実際によく使われるようになるのは2000年前後からと記憶するが、ショパールは早くもマニュファクチュール宣言をしていた。
翌1997年4月、バーゼル・フェア97で待望の初モデルを見る前に、ひと足先にフルリエのショパール・マニュファクチュールへ出かけることになった。この年はバーゼル・フェア97より前にSIHH(国際高級時計展・ジュネーブサロン)が開催されていて、カルティエの取材を終えた午後にジュネーブからフルリエを往復した。今回もブランド関係者のアテンドはなく、レンタカーで地図を頼りに自力で向かう。ジュラ山脈のヴァル・ド・トラベールという地域にあるフルリエはジュネーブからの直線距離でだいたい100km。ジュネーブを出発し、ローザンヌを経て、温泉で有名なイベルドンから山間部に入り、のどかな田舎道をたどって15時に到着した。



ハイテクと伝統の熟練技を融合
工房は駅前の小さな建物の中にあった。案内してくれたのは、工房の責任者を務めるジャン-フレデリック・デュフール氏だ。この名にピンとくる人も多いだろう。そう、L.U.Cの開発プロジェクトに関わり、その後ゼニスのCEOに就任してブランドの改革を進め、2015年からはロレックスのCEOとして活躍するスイス時計産業の最重要人物のひとりである。経歴によると1967年生まれだから、その頃30歳くらいの若さ。ジュネーブ大学理工学部卒のバリバリ理系で、コンピューターによる設計とCNCマシンによる部品製造によって伝統的な機械式ムーブメントを作るのがここの特色だと力説する。部品レベルではハイテクを活用し、仕上げと組み立てでは熟練の職人技を駆使することが重要だと語っていた。


キーマンたちの活躍
設立から1年あまりの工房では20人ほどが働いていた。L.U.Cの開発に携わった中心的な時計師は、パテック フィリップなどで15年のキャリアを積んだベテランのダニエル・ボロネージ氏。彼とはその後も何度もお目にかかる機会があったが、技術的な質問にもていねいに答えてくれる好人物だった。またデュフール氏の話によると、L.U.Cの開発プロジェクトでは、同じフルリエに拠点を構える時計師ミシェル・パルミジャーニが協力したという。パルミジャーニが1996年に自身のブランドを創設するきっかけがショパール マニュファクチュールのプロジェクトにあったとの話も後年の取材で知った。ショパールがジュネーブの本社内ではなく、ここフルリエにムーブメント工房を設立したのも偶然ではなかったのかもしれない。そういえば厳格な品質規格「カリテフルリエ」の認証でもショパールとパルミジャーニ・フルリエ、ボヴェが手を組んで発足したことは有名だ。
ムーブメント状態でのL.U.C 1.96発表から10年となる2006年に、当時の輸入代理店のプロジェクトで『KIZUNA』と題したブランド本の制作に関連して、取材や撮影のためにショパールのジュネーブ本社とフルリエの工房を訪れた。その間の10年でどちらも何回か訪れたが、特に建物全体がショパールの所有になってからのフルリエのマニュファクチュールは、規模が大幅に拡大し、機械や人員も増えていて驚いた。自社ムーブメントの開発が高級機械式時計ブランドの地位を揺るぎないものにし、ブランドイメージをこれほど根本から塗り替えた例はめったにないのではないか、当時を振り返るといつもそう思うのだった。
菅原茂のプロフィール

1954年生まれ。時計ジャーナリスト。1980年代にファッション誌やジュエリー専門誌でフランスやイタリアを取材。1990年代より時計に専念し、スイスで毎年開催されていた時計の見本市を25年以上にわたって取材。『クロノス日本版』などの時計専門誌や一般誌に多数の記事を執筆・発表。時計専門書の翻訳も手掛ける。