時計史に輝く1969年の自動巻きクロノグラフ開発競争(前編)

FEATUREWatchTime
2020.07.21

1960年代、ホイヤー・レオニダス、ブライトリング、ハミルトン-ビューレン、デュボア・デプラの企業連合は、独走中のゼニス、セイコーを相手に、世界初の自動巻きクロノグラフムーブメントの開発競争へ挑んでいた。彼ら4社は、いかにして連合を組むことになったのだろうか? 手掛かりを元に、今回はその歴史をひもといていこう。前後編にわたってお届けする。

ジャック・ホイヤー

1970年代の写真から。F1チャンピオンのニキ・ラウダ(左から2番目)とクレイ・レガツォーニへ、自動巻きクロノグラフ搭載機について説明するジャック・ホイヤー(左)。
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 1969年1月10日、毎朝と同じように新聞へ目を通しながら、ホイヤー社長のジャック・ホイヤーは、あまりのショックにコーヒーカップを落としそうになった。短い記事が、ホイヤーの競合であるゼニスが世界初の自動巻きクロノグラフを開発し、プロトタイプを公表したことを告げていた。「嘘だろう?」。ホイヤーはまったく同じ開発を、多大な時間と最高機密扱いのプレッシャーのなか、約3年にわたりある企業連合の一部として進めていた。その自動巻きクロノグラフ、「キャリバー11」の発表は同年3月3日を予定していた、その目前のことだった。

 このくだりは、現代の時計史の中でも最も魅力的な逸話のひとつであり、人類の月面着陸、ボーイング747の処女飛行、ヒッピーたちのフラワーパワーといった、技術の進歩と大きな社会変化が見られた同じ1年のうちで起こったことである。その当時は特に自動車産業が世界経済に大きく台頭した頃だった。スリリングなオートレースが熱を帯び、移動という時代潮流、コミュニケーションの多様化も見られた。生産ラインが整備され、加速度的な早さで組み立てられた車を多くの人が購入するようになった時代であった。

スティーブ・マックイーン

キャリバー11を搭載したホイヤーのモナコを着用するスティーブ・マックイーン。1971年に公開された映画『栄光のル・マン』より。

 何世紀もの伝統を誇るスイスの時計産業は、新時代の革新に歩調を合わせようとした。選択の余地はなかった。時代の流れに対抗するには自分たちが変わっていくしかなかったのである。振り返ってみると、その後10年にわたってスイス時計産業を揺るがした、セイコーのクォーツウォッチ開発が影を落とし始めた時期であった。あら探しをする人の中には、技術進歩が惰眠をむさぼっていたスイス時計業界を揺るがしたという人もいるだろう。モダンな自動巻きクロノグラフの開発は、短期的にみると規模の大きな時計会社にとっての聖杯探求の様相を呈していた。

 今日、市場にある自動巻きクロノグラフの豊富な選択肢を見る限り、この三つ巴の戦いがどれほど大きな挑戦であったかを想像するのは難しいかもしれない。ただそれまでは、自動巻き上げシステムの利便性とクロノグラフの機能性を、腕時計というサイズ的制限のある中に統合することに成功したものはいなかったのである。

1969年、自動巻きクロノグラフの「エル・プリメロ」を、ゼニスは世界に先駆けて誇り高く、華々しく発表した。

 当時ホイヤーの社員で、のちにクロノスイスを創業するゲルト・リュディガー・ラングはこう振り返る。「自動巻きクロノグラフは、20世紀における最大の時計発明でした。それがなければ時計業界で真に画期的なものは何も生まれなかったでしょう。スイスのクロノグラフ製造業者の間では、当時クロノグラフ市場をリードしていたオメガより先に発表ができれば、これにより新しい市場を拓き、ベストセラーを狙えると思われていました」。

自動巻きクロノグラフの開発における重要人物のひとり、タグ・ホイヤー名誉会長(当時はホイヤー社長)のジャック・ホイヤー。


複雑な構造

 自動巻き腕時計へのクロノグラフ機構搭載は技術的困難が多く、クロノグラフ愛好家には当面、手巻きモデルしか選択肢がなかった。最初のハードルは、動力の問題であった。クロノグラフの駆動中、クロノグラフ秒針と積算計の運針は、非常に多くのエネルギーを消費する。そのため自動巻き機構のパフォーマンスをかなり向上させる必要があったのである。また技術者たちはふたつの複雑なメカニズムを統合する必要性に迫られていた。ローターをはじめとしたパーツを追加しながら、同時に最善の輪列構造を実現する必要があったのだ。もちろんこれらすべてを腕時計の小さなサイズの中に納めなければならない。この野心的目標は1960年代の研究開発部門を輝くような情熱で満たしていた。誰もが最重要機密を守りながら、解決策を探求し続けたのである。
 
 現在において、自動巻きクロノグラフ搭載機を最初に発表した会社はゼニスであるというのは周知の事実だ。ゼニスはこの計画を1962年にスタートさせ、世界初の自動巻きクロノグラフの発表と1965年の会社設立100周年を同期させようとしていたのである。ただこの目標設定は、達成されることにはならなかった。計画の完了と最初のプロトタイプを用意するのに、さらに4年の月日を要したからである。


ナビタイマー クロノマティック

キャリバー11の共同開発はウィリー・ブライトリング(左)の庇護のもと進められた。1969年のブライトリング「ナビタイマー クロノマティック」(右)には特徴的な回転計算尺が設けられた。

競合同士の連携

 ホイヤー・レオニダス、ブライトリング、ハミルトン-ビューレンが自動巻きクロノグラフの共同開発のために組んだチームの名は「プロジェクト99」。この華々しい集合体の結成に招集をかけたのは、ジャック・ホイヤー、そしてデュボア・デプラのジェラルド・デュボワであった。デュボア・デプラは1901年、ジュウ渓谷のル・リュで創業し、量産型カム式クロノグラフを手掛けるなど、大規模なクロノグラフ供給会社として名を馳せていた。ジェラルド・デュボワは会社創業者の孫にあたり、自動巻きクロノグラフの開発を長い間目指していたが、それには多くの投資が必要で自分の会社だけではカバーができなかったのである。

 ホイヤーは1965年にグレンシェンを拠点とするブライトリングの3代目、ウィリー・ブライトリングに連絡を取ると、ウィリーはすぐにその計画に夢中になった。このグループの4番目のメンバーはハミルトン-ビューレンであった(ビューレンは元来ムーブメント製造会社で、1966年にアメリカのブランド、ハミルトンによって買収された)。同年、契約書作成とともに各社の費用が配分され、特許権が付与されると、この企業連合は秘密裏に開発に着手した。1968年にホイヤーへ時計師として入社したゲルト・リュディガー・ラングは当時のことを思い出しながら「秘密の計画について、わずかでも気付いたものは、社員の中にはいなかった」と語っている。

モナコ

1969年の、ホイヤー「モナコ」の広告。

 競合企業が手を組んだこの連合は、特別なコラボレーションの始まりとなった。この連合の成果は3年後、「キャリバー11」となって結実したのである。ブライトリングはこのムーブメントを「Chrono-Matic(クロノマティック)」と名付けた。ホイヤーも同じように呼んだが、綴りは「Chronomatic」とした。


思いがけない敵対者

 同じころ、日本の巨人は眠っていたわけではなかった。1960年代から上位機種市場でグランドセイコーを展開していたセイコーは、同様の開発を1960年代半ばに開始していた。セイコーの秘密計画のコードは6139。東京オリンピックの1964年、セイコーは日本初の手巻きクロノグラフ搭載機を発表し、一方で異なる技術をもってクォーツウォッチの開発にも着手していた。しかしセイコーが後に語るように、それらは本件とまったく別の話であった。


ゼニスの技術アプローチ

「自動巻きクロノグラフ」という同じゴールに対して、それぞれの技術アプローチは異なるものであった。ゼニスが提唱したのは、魔法の数字「36000」、エル・プリメロの振動数である。1秒間に10振動の高振動によって、自動巻きクロノグラフで1/10秒の計測が実現したのだ。クロノグラフ機構が一体型である点や、コラムホイール式であることも特徴とした。高振動にも関わらず、パワーリザーブ約50時間を備え、そのムーブメントはわずか直径29.33mm、厚さ6.5mmのスペースに抑えることに成功している。外観も優れていた。これによりエル・プリメロは他と一線を画すことになり、クロノグラフ愛好家の心拍数をも高めたのである。

エル・プリメロ

エル・プリメロのファーストモデルに採用された3つ目のサブダイアルと、4時半位置に備わるデイト表示の意匠は現在でも踏襲されている。


 ゼニスの傑作「エル・プリメロ」は、その後多くの大手メーカーに搭載されることとなった。もっともよく知られているのが「コスモグラフ デイトナ」であろう。ロレックスは、エル・プリメロの振動数を毎時3万6000振動から毎時2万8800振動に下げるなど、いくつかの変更を加えたCal.4030を搭載。これによってコスモグラフ デイトナは自動巻きクロノグラフとなり、ロレックスは2000年までこれを採用した。他にもブルガリ、ダニエル・ロート、エベルなどがエル・プリメロを搭載した。エベルはゼニスのムーブメントをベースに1989年、パーペチュアルカレンダーの腕時計を発表している。

(後編へ続く)