IWC/パーペチュアル・カレンダー Part.2

FEATUREアイコニックピースの肖像
2022.07.28

今でこそ当たり前になった永久カレンダーというメカニズム。その復興は1970年代に始まるが、85年のIWC「ダ・ヴィンチ・パーペチュアル・カレンダー」がなければ、今のような形では広まっていなかったかもしれない。工芸品であった永久カレンダーを、使えるものに進化させる。クルト・クラウスが目指したユニークな設計思想は、初出から30年以上たった今なお、際立った価値を持ち続けている。

星武志、三田村優:写真 Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas), Yu Mitamura
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2022年5月号掲載記事]


IWCパーペチュアル・カレンダーの原点
~ダ・ヴィンチ・パーペチュアル・カレンダーの設計思想~

1985年に発表された「ダ・ヴィンチ・パーペチュアル・カレンダー」は実用性を考慮した複雑時計の先駆けだった。リュウズを回すだけでカレンダーを調整できるという設計は、当時としては極めて革新的なものだった。設計者のクルト・クラウスは、いかにして新しいパーペチュアル・カレンダーに至ったのだろうか?

ダ・ヴィンチ Ref.3750

ダ・ヴィンチ Ref.3750
IWCに大きな成功をもたらしたのが、1985年に発表されたRef.3750こと「ダ・ヴィンチ・パーペチュアル」である。リュウズひとつでカレンダーを早送りできるという操作性に加えて、2499年まで年を表示できる機能を持っていた。デザインはハノ・ブッシャーによる。18KYG。参考商品。

 閏年を含めて、カレンダーを自動的に調整する永久カレンダーは、最もポピュラーな複雑機構のひとつである。しかし、腕時計への採用は1925年と遅く、その普及は80年代を待たねばならなかった。

 機械式時計の最盛期である60年代でさえ、永久カレンダーを載せた腕時計がほぼ存在しなかった理由は、あまりにも製造コストが掛かったためだった。精密な永久カレンダーの部品は、クロノグラフの部品のように、プレスで打ち抜いて作るのが難しかったのである。また手作業で削った部品が正しく動くようにするには、さらに微調整が必要だった。サイズの大きな懐中時計はさておき、小さな腕時計に永久カレンダーを加えるには、極めて優れた職人と、それ以上に、途方もない対価を払えるだけの、気前の良い顧客が必要だったのである。

 変化が訪れたのは、70年代半ばのことだった。ワイヤ放電加工機の導入により、以前は手作業で削らなければならなかった精密な部品の製造が、はるかに容易になったのである。引き金を引いたのは、クロノグラフメーカーのデュボア・デプラだった。長年、同社は安価なクロノグラフを製造していたが、機械式クロノグラフの需要が急減するに伴い、経営が悪化していた。そこで同社は高価な複雑機構に活路を見いだすべく、ETAが採用したワイヤ放電加工機を購入したのである。

 その効果は劇的だった。例えば、永久カレンダーの歯車類を押さえる規制バネ。プレスで細いバネを抜くのは難しいため、かつての永久カレンダーは、糸鋸で抜いたバネを持っていた。これは職人がひとつひとつ部品を切り出すため、全く量産に向いていない。しかし、デュボア・デプラは、ワイヤ放電加工機を使うことで、昔の永久カレンダーに使われたのとほぼ同じ形状のバネを、複数枚量産できるようになったのである。もちろんプレスよりも生産性は低かったし、糸鋸で抜くほど細い部品は作れなかったが、高級機に載せても問題ないほどの精密な部品を「量産」できるようになったのは画期的だった。

 細いバネを安価な線バネに置き換えれば、永久カレンダーを製造できたかもしれない。しかし、線バネを使ったムーブメントはジュネーブ・シールを取得できない、という決まりがある以上、いわゆる高級時計メーカーが線バネを使うことは決してなかったのである。

 ちなみにETAは、金型を成形しやすくするためにワイヤ放電加工機を導入した。対してそれを、部品の製造そのものに転用したのが、デュボア・デプラの新しさだった。90年代以降、永久カレンダー、トゥールビヨン、そしてミニッツリピーターなどが時計業界をにぎわせるようになった背景には、間違いなくこの最新鋭の工作機械があった。

 放電加工機を導入したデュボア・デプラは、まずクロノグラフよりも難しく、リピーターよりも容易な永久カレンダーのモジュールの設計・製造に取り組んだ。これは古典的な永久カレンダーを腕時計サイズに縮小したもので、「オールドスクール」と呼べるほどに手堅い設計を持っていた。その証拠に、往年の永久カレンダーに同じく、カレンダーの調整は、ケースサイドのボタンで行う必要がある。防水性が低く、気を付けて扱う必要がある半面、この永久カレンダーモジュールは、いかにも高級機然とした設計を持っていた。そのため、今なお、オーデマ ピゲやヴァシュロン・コンスタンタンといった第一級のメーカーに採用され続けている。

 対して、IWCの永久カレンダーは、デュボア・デプラとは全く違う思想から生まれたものだった。そう言って差し支えなければ、IWCの永久カレンダーとは、世界で初めて、腕時計向けに最適化された複雑機構と言えるかもしれない。

 クォーツの普及を受けて1970年代に経営が傾いたIWCは、機械式の懐中時計に活路を見いだそうとしていた。当時、IWCの時計師だったクルト・クラウスはこう語る。

ムーンフェイズカレンダー Ref.5510

ムーンフェイズカレンダー Ref.5510
クルト・クラウスが作り上げた懐中時計のひとつ。ムーンフェイズとポインターデイト、そして6時位置には曜日表示と秒針が備わる。日付と曜日調整は、プッシュボタンで行う。手巻き(Cal.9721)。31石。1万8000振動/時。18KYG。限定250個。1980年代製。参考商品。

「この時代、週に4日しか働けなかった。私は(IWCの本社がある)シャフハウゼンに自分のワークショップを持っていて、そこで作業することが許された。空き時間で考えたのは、懐中時計にムーンフェイズのモジュールを載せるアイデアだった。鉛筆で簡単なスケッチを描き、ミリングマシンで地板や部品をカットして、ムーブメントを作った」

 彼は完成したムーブメントを、当時の営業責任者であったハネス・パントリに見せた。クレイジーだが立派だ。100本作れないかと言われた、とクラウスは語る。この懐中時計が引き金となって、IWCは懐中時計の専業メーカーに転身を果たそうとした、本誌でもすでに記した通りだ。しかし、商業的な成功を収めた結果、皮肉にもIWCがストックしていた懐中時計用のエボーシュは尽きようとしていた。後にパントリはクラウスにこう語った。「懐中時計はもう終わりだ。次は腕時計でカレンダーを作って欲しい」。対してクラウスは、であれば、他にないものを作ってみせましょう、と答えたという。彼が腕時計用に永久カレンダーの設計を始めたのは(彼の記憶に従うならば)80年のことだった。

「本を読んだり、昔の懐中時計を見て、永久カレンダーがどういうものかは学べた。ただ私は単に作るのではなく、今までにないものを作りたいと思った。その際考えたのは、何を作りたいかではなく、何を作りたくないかだった」

 クラウスには明確なビジョンがあった。彼は、堅牢で簡単に操作ができ、大量生産に向く永久カレンダーを作ろうと考えたのである。これは、古典的な永久カレンダーを腕時計サイズに縮小させた、デュボア・デプラとは真逆のアプローチだった。

永久カレンダーモジュール

最初期のダ・ヴィンチが搭載した永久カレンダーモジュールの図。一般的な永久カレンダーに比べて、かなりユニークな設計であることが分かる。注目すべきは、ムーブメントの右側から中心に見えるフック状のレバー。プレスを加えることで、48カ月カムに噛み合うレバーを一段持ち上げている。生産性への配慮を示すポイントだ。

 もっともこの時代のIWCは、永久カレンダーではなく、普通のトリプルカレンダーウォッチも製作した。82年に発表されたのは、オールドストックのバルジュー88を載せた、「シンプル」なトリプルカレンダームーンフェイズクロノグラフである。IWCの関係者にさえよく知られていない(少なくともクラウスは記憶していないと言っていた)このモデルが示すのは、IWCの試行錯誤だろう。あるいはこのモデルは、永久カレンダークロノグラフを作るための、パイロット版のようなものだったのかもしれない。

 IWCが、永久カレンダーではなく、永久カレンダー「クロノグラフ」を作るに至った経緯は、やや複雑である。クラウスはこう語る。「開発に際して、市場の調査を行った。永久カレンダーはすでに存在していた(筆者注:オーデマ ピゲは78年に極薄の永久カレンダーをリリースした)が、当時永久カレンダークロノはなかった」。そこで他にはないものとして、永久カレンダークロノグラフを作ろうと考えた、というわけだ。

 彼はもうひとつの理由を挙げた。当時のIWCの社長であったギュンター・ブリュームラインは、クラウスにこういう条件を出したという。「好きに作っていいが、ムーブメントには既存のエボーシュを使うこと」。クラウスは次のような結論に至った。

「ベースムーブメントとして自動巻きクロノグラフであるバルジュー(=ETA7750)以外の選択肢はなかったね。これはデイト表示が付いていたし、しかも日付の切り替わりはゆっくりだったので(永久カレンダーを動かす)動力源として使えると思ったよ。ベースとして、当時IWCの使っていたジャガー・ルクルトの自動巻き(888か889)も検討した。しかしこれは日付の切り替わりが急で、永久カレンダーの動力源には使えなかった」

 幸いにも、当時のIWCは、ポルシェデザインのクロノグラフをラインナップに載せており、ETA7750に対するノウハウを蓄積しつつあった。もっとも、ETAが7750の再生産を発表したのが83年であると考えれば、それ以前のIWCは、おそらくケレックに残されていた、7750をポルシェデザインに転用していたはずだ。彼はひょっとして、ETAが7750の再生産を行うというニュースを聞いて、永久カレンダークロノグラフの設計に踏み切ったのかもしれない。その証拠に、永久カレンダーのドローイングが完成したのは、まさにETA7750の再生産が発表された83年のことだった。正確に言うと、1983年の7月である。

クルト・クラウスのドローイング

クルト・クラウスによる日付表示と48カ月カムのドローイング。上に見えるCal.EKとは、永久カレンダーの略である。彼はコンピューターなしで、永久カレンダーの設計を完成させた。

 IWCの永久カレンダーが、既存の永久カレンダーと全く異なっていたのが、ケースボタンのプッシュボタンを押すのではなく、リュウズを回すだけで、すべてのカレンダーを早送りできる点にあった。クルト・クラウスがいつ、こういう洗練されたアイデアを思いついたのかは分からない。しかし、そのヒントは彼の言葉の中に見いだせる。「クォーツでも動かせるよう、(永久カレンダー)モジュールの抵抗は非常に小さくしたよ」。彼の言葉を裏付けるかのように、IWCの永久カレンダーモジュールは、フレデリック・ピゲやジャガー・ルクルトといった極めて小さなトルクのムーブメントでも確実に作動したのである。

 シンプルな操作と小さな抵抗を両立した鍵が、ほとんどのアナログ時計に付いている、日付表示用のデイトリングだった。1日に1回動くデイトリングにピンを立て、そのピンが、すべてのカレンダー表示を動かす。つまり、日車の回転ではなく、日付の早送りだけで、すべてのカレンダーを動かすようにしたのである。

ダ・ヴィンチの月齢表示

122年に1日しか誤差がないダ・ヴィンチの月齢表示。実際の月齢に比べて57秒しか狂いがない。クラウスは、“Logarithmen Tabelle”という本を読み、月の動きをコンマ以下5桁まで計算したという。

 また、クラウスは生産性にも配慮を加えた。それ以前の永久カレンダーは、さまざまなレバー類を内蔵していた。対してダ・ヴィンチの永久カレンダーは、4つの爪を持つレバーと1カ月で1回転する日車が、曜日と日付を動かすだけでなく、月末の日送りも司る。そしてレバーが動かす曜車(曜日を動かす歯車)には大きな中間車が噛んでおり、これが12時位置のムーンフェイズを回す。ムーンフェイズが122年に1日しか狂わないのは、大きな中間車が、非常に大きな減速比を持つためである。IWC製永久カレンダーの特徴である4桁の西暦表示も、やはりシンプルだ。4年に1度回転する48カ月カムの下には歯車があり、これが小さな中間車を介して、年表示を回すだけ。

 簡潔な設計を採用することで、IWCの永久カレンダーは今までのものとは比較にならないほど、レイアウトに余裕を持てるようになった。とはいえ、その狙いは、さらに付加機構を詰め込むためではない。できるだけ余白を設けることで、この永久カレンダーは、ワイヤ放電加工機で加工された、高価で繊細な部品ではなく、プレスで加工された大きな部品を採用できたのである。その証拠に、4つの爪を持つレバーは、ETA7750のレバー類に同じく、プレスにより上下方向に段差が付けられている。筆者の知る限りで言うと、これは、プレスで製造された部品を多用した、コンプリケーションの先駆けである。クラウスはこう語る。

ムーブメント

(右)ダ・ヴィンチ永久カレンダーの動力源が、ほとんどのアナログ時計に備わるデイトリングだ。緑色の部品が、黒いデイトリングを回す車。突起でひっかけて、リングを動かす。
(中)ムーブメントの上に重なるのが、永久カレンダーモジュールである。右に見える青いピンはデイトリングに固定されており、その動きに連動して首を振り、連結したレバーを動かす。
(左)曜日表示を動かす曜車とムーンフェイズ、そして年表示を加えた状態。レバーの先端にある突起が左側に見える7枚の歯を持つ曜車をひっかけて回す。設計は非常に簡潔だ。

「設計で重要だったのは、堅牢で使いやすいことだ。しかしそれ以上に大切なのは、工業生産ができることだろう。永久カレンダーやトゥールビヨンを手作業で作るのは難しくない。しかしそれは玩具でしかない。重要なのは工業生産できることであり、ダ・ヴィンチで目指したのはすべて機械で作れることだった」

 また、簡潔な設計は、1985年の「ダ・ヴィンチ」に永久カレンダーらしからぬ戦略的な価格を与えることに成功した。あるスイスの時計関係者が「単年だけで、市場に存在する永久カレンダー以上の本数を作った」と感嘆したほどのヒット作になったのは当然だろう。

ポルトギーゼ・グランド・コンプリケーション

ポルトギーゼ・グランド・コンプリケーション
「グランドコンプリケーション」のムーブメントを転用したコンプリケーション。ETA7750を改良したムーブメントの上に、永久カレンダーとミニッツリピーターモジュールを重ねている。今もって7750をベースにした複雑時計の最高峰のひとつ。18KRG。参考商品。

 優れた基礎設計を持つIWCの永久カレンダーモジュールは、基本設計を大きく変えずに、以降も熟成を重ねた。大きな改良点は数えるほどしかない。いくつかの規制バネには石がはめ込まれたほか、当初不具合のあった年表示も改良された。また、GSTパーペチュアルの発表に伴い、ムーブメントの耐衝撃性も改良された程度だ。

 IWCの永久カレンダーは、ポルトギーゼ・パーペチュアルの発表に伴い、さらに洗練された。もっとも大きな違いは曜車の駆動方法である。ダ・ヴィンチ以降、IWCの永久カレンダーは、4つの爪を持つレバーで、曜車を回していた。対してポルトギーゼ・パーペチュアルのモジュールでは、レバーが小さくなり、代わりにデイトリングが直接、曜車を動かすレバーを押すようになった。合わせてデイトリングやムーンフェイズを動かす中間車なども肉抜きされている。

イル・デストリエロ・スカフージア Ref.1868

イル・デストリエロ・スカフージア Ref.1868
1993年に発表された本作は、IWCお得意の永久カレンダーにミニッツリピーター、スプリットセコンド、そしてトゥールビヨンを搭載した、当時最も複雑なグランドコンプリケーションだった。設計の監修はクルト・クラウス。他にジュリオ・パピが関与した。18KYG。参考商品。

 設計に手を加えた理由は、レバーや部品の慣性を下げるため。強いトルクでカレンダーを動かすポルトギーゼ・パーペチュアル・カレンダーに肉抜きの必要はなさそうだが、モジュール全体の耐衝撃性を高めるため、IWCは慣性を下げたのである。西暦表示の上2桁を押さえるルビーも、今までのように地板に埋め込むのではなく、バネで横から支えるように変更された。これもやはり、今までのものに比べて衝撃に強くなっている。以降のIWCが、スポーツウォッチに永久カレンダーを採用するようになったのは納得だ。

 簡潔にして要を得た設計を持つIWCの永久カレンダーモジュール。その完成形とも言えるのが、次に紹介する、新しい「ポルトギーゼ・パーペチュアル・カレンダー42」である。



Contact info: IWC Tel.0120-05-1868


IWC「ポルトギーゼ・クロノグラフ」その完全な歴史 1996~2021 (前編)

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時計の名設計者「クルト・クラウス」という時代

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密着IWC24時 クォリティを生み出す人間力に迫る

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