A.ランゲ&ゾーネ/ダトグラフ

FEATUREアイコニックピースの肖像
2020.01.18

ダトグラフのデザイン理論
ラインハルト・マイスのスケッチから考察

時計史に残る傑作となったダトグラフ。
しかし、その開発を推し進めた人物の名前は、ほとんど知られていない。ラインハルト・マイス。世界屈指の時計史家である彼は、ギュンター・ブリュームラインの片腕として、ダトグラフを完成に導いた。本人のスケッチと、そのコメントから、開発経緯を見ていくことにしよう。

1999年1月19日の最終デザイン。おそらくは最終モックアップの写真にマイスが図を描き加えたものだろう。正三角形、黄金比に加えて、マイスがいうところの「数学的なプロポーション」が盛り込まれている。

ダトグラフが初めて形となったのは、1994年1月19日のスケッチである。描いたのはラインハルト・マイス。ケース形状こそ異なるが、そのダイアルデザインや針の形状は、99年の量産機にほぼ同じである。このスケッチを受けて、ムーブメントの設計が行われることとなる。

マイスによる1995年7月5日のスケッチ。これが搭載するムーブメントの初デッサンである。フライバック機構が備わっているが、プレシジョン・ジャンピング・ミニッツ・カウンターはまだ付いていない。なおキャリバーナンバーはL951.1ではなく、L942.0と記されている。

 ダトグラフのプロジェクトを統括したのは、LMH総帥のギュンター・ブリュームラインである。しかし事実上のプロダクトマネージャー兼デザイナーとして関わったのは、時計史家のラインハルト・マイスであった。『Das Tourbillon』の著者として知られる彼は、1990年代にブリュームラインに招聘され、彼の右腕となった。とりわけ彼の業績で注目すべきは、IWCやA.ランゲ&ゾーネのために優れたデザインワークを行ったことだろう。今回、ダトグラフの開発経緯を断片的に語ってくれたのは、当事者であるマイスその人である。

 そもそもダトグラフの企画はいつから始まったのか。マイスの言葉に従うと、正確な時期は言えないものの、少なくとも1993年末以前であったという。プロダクトに携わったのは主に4人。ギュンター・ブリュームラインが統括し、ラインハルト・マイスがデザインを、当時の設計部長であるヘルムート・ガイヤーと、スタッフのアネグレイト・フライシャーがムーブメント設計を担当した。

 興味深いのは設計に対するアプローチである。通常はまずムーブメントがあり、それを受けてデザインが起こされる。しかしダトグラフは、(他の同社製品と同じく)まず外装デザインありきでプロジェクトが始まっている。A.ランゲ&ゾーネ側も、ダトグラフの開発に際して、「ケースとダイアルのデザイン案が先に具体化し、その後ムーブメントに落とし込まれた」ことをコメントしている。しかもラインハルト・マイスは、外装だけでなく、ムーブメントのデザインにも携わったのである。ひとりのデザイナーが、ここまでコミットしたプロダクトを筆者は他に知らない。

クロノグラフ以外の開発も並行して進められた。左はダブルスプリット(2004年初出)で初めて採用される、可動式ヒゲ持ち付きのフリースプラングテンプ。右はそのデッサンである(1995年1月10日)。最終的には左のようなジャイロマックス型に落ち着いたが、さまざまな試みがなされたことが分かる。

1997年7月1日のスケッチより。左は造形を一新されたキャリングアームの押さえバネ、右は30分積算計車と、プレシジョン・ジャンピング・ミニッツ・カウンターの支点を押さえる一体型の受けである。設計の進捗に伴い、デザインも少しずつ変化していることが分かる。

 ダトグラフのルーツは、1994年1月19日付けのデザイン画まで遡ることができる。右下のサインを見ると、デザインはマイス。ケースはラウンドではなくトノーだが、すでにダイアルは、製品版のダトグラフを思わせるほど完成されている。このスケッチを受けて、搭載するムーブメントの開発が進んだ。ムーブメントの初ドローイングは95年7月5日。このドローイングは、やはりマイスの手によるものだ。この時点で、ムーブメントにフライバック機構が備わることは決まっていた。しかしL951.1の特徴であるプレシジョン・ジャンピング・ミニッツ・カウンターは、この時点ではアイデアさえない。ドローイングを見ると、30分積算車と秒積算車のスペースは極めて小さく、両者を連結するために小さなカナが描かれている。これでは積算計の挙動はとても安定しないだろう。

 マイスは何も語らないが、この小さな隙間で、積算車を安定して回すために生まれたのが、カムとレバーで積算計を動かす、プレシジョン・ジャンピング・ミニッツ・カウンターだったのではないか? クロノグラフ機構を6時位置に集めたこの新しいクロノグラフムーブメントは、幸いにも、12時方向に大きな余白があった。ここに積算計を収めようと考えるのは当然の帰結だろう。

 マイスのデッサンを受けて、基礎ムーブメント全般を設計したのはヘルムート・ガイアであった。しかしマイスは「クロノグラフ部、特に積算計の設計をしたのはアネグレイト・フライシャーだ」と語っている。

 プレシジョン・ジャンピング・ミニッツ・カウンターの設計は、96年に始まった。ガイア、またはフライシャーが描いたであろうドローイングを見ると、当初はテコの原理を生かしただけの、簡単なものであったことが分かる。しかし分積算計の設計が最も大変だったと関係者が述べたとおり、挙動を安定させる押さえバネなどが加わり、やがて複雑なものへと進化を遂げた。事実、1分単位の正確な挙動を実現するため、フライシャーは300枚もの設計図を書いたという。しかしミニッツ・カウンターは、この時点で完成したわけではない。最終的な仕様が固まるのは、カウンターウェイトが加えられて挙動が安定する「第2世代」になってからである。

多くの関係者が「最も設計が難しかった」と語るプレシジョン・ジャンピング・ミニッツ・カウンター。左はガイア、またはフライシャーが描いたと思われるデッサン。右はその最終形である。特許出願者はラインハルト・マイス。ただし担当者がうっかり間違ったのか、出願者名はリヒャルトとなっている(写真は本人著作からの引用。名前下の傍線もマイス自身が引いたものと思われる)。

 機構の改良に併せて、マイスはムーブメントの造形をブラッシュアップし続けた。97年7月1日のデッサンは、洋銀製のブリッジにスティール製の押さえバネを埋め込むという、ダトグラフに特徴的な意匠を示している。

 デザインが最終的に固まったのは、バーゼルフェア直前の99年1月であった。おそらくはモックアップの写真に、マイスはアウトサイズデイトと、ふたつのインダイアルを結ぶ正三角形を書き込んで完成形としている。確かにケース形状は大きく変わった。しかしダイアルの意匠は、当初のデッサンから、ほぼ変わらないまま完成を見たのである。

 当時のデッサンが物語るとおり、ダトグラフとはまずダイアルデザインありきでスタートした企画であった。ムーブメントの設計は後に続き、余白を埋めるようにプレシジョン・ジャンピング・ミニッツ・カウンターが加わった。しかしデザインありきは本当だろうか?

 一枚だけ公表されたCAD図面(おそらくは限りなく初期の設計図)を見ると、その輪列や香箱は、直径30㎜のクロノグラフとしてはかなり小さいことが分かる。穿った見方をすると、当初のダトグラフとは、輪列の極めてコンパクトな、例えばL942などと通常輪列を共用するコンセプトから生まれたものではなかったのか。輪列が小さければ、配置は直線状になる他はなく、つまり4番車を9時位置ではなく、8時位置に置くしかない。もちろんCADで見る輪列と、現在の輪列はまったくの別物だ。しかし当初はコンパクトな輪列が前提にあったからこそ、マイスはオフセットしたインダイアルと、12時位置に置くアウトサイズデイトというアイデアを持ったのではないだろうか?