「今日は、私の時計コレクションの中から、私自身が特に興味あるモデルを選りすぐって持ってきました」。こう語るのは、香港で最も賑やかなブランド街と言っても過言ではない銅鑼湾(コーズウェイベイ)のタイムズスクエアにオフィスを構えるS.L.さんである。何を隠そう、このLさんは香港で発行されている時計専門誌の編集長を務める人物だ。今や、時計の情報を与える側に立つ時計愛好家は、果たして、どんな時計人生を過ごしてきたのだろうか?

1969年生まれ。父親が香港人で母親がフランス人。ビジネスマネージメントとITを専門とする。香港で修士号を取得した後、渡英し、ロンドンでコンサルティングの仕事に就く。香港に戻ってからは、ITの知識を活かし、香港ジョッキークラブのプログラムマネージャーなどを経て、2009年より、時計専門誌に参画し、今に至る。
Photographs by Eiichi Okuyama, Yu Mitamura
鈴木幸也(本誌):取材・文 Text by Yukiya Suzuki (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2018年]
「8歳の誕生日に父からもらったカルティエ。そこから私の時計人生は始まりました」
「私の時計歴は長いですよ」。こう前置きして、Lさんは自身の時計遍歴を話し始めた。
「子供の頃から機械ものが大好きだった私は、事あるごとに親に“メカ”的なオモチャをねだっていました。堪りかねた父親が私の8歳の誕生日に時計をプレゼントしてくれたのです。それはカルティエの腕時計でした。今にして思えば、そこから私の時計人生が始まったと言ってもいいでしょう」
香港育ちのLさんだが、母親がフランス人で、父親が香港人。時計との最初の出会いこそ、衝撃の“ロケットスタート”だったが、やがて軌道修正されていったという。
「その後しばらくはカシオの時計を着けていました。ただ、16〜17歳の頃、真剣に時計と向き合おうと思い立ち、自力でロンジンのコンクエストを手に入れました」


ただ、やはり若いうちは、たとえ生まれ育った家庭が裕福であったとしても、高価な時計を自力で入手するには限界がある。Lさんも若い頃は、新しい時計を買うためには、持っている時計を売るしかなかった。20代前半までは、こうして手放しては買うことを繰り返していたため、時計がコレクションされることはなかったという。
「大学で修士の学位を取得した後、ロンドンに渡り、そこでコンサルティングの仕事に就きました。1998〜2001年にロンドンにいた時代には、永久カレンダーに強く惹かれていたことを覚えています」
04年、Lさんは、香港を訪れていたフランソワ-ポール・ジュルヌ氏に会う機会を得た。現在のF.P. ジュルヌ香港ブティックのゼネラルマネージャー、スティーブ・リュック氏の紹介だったという。
「ジュルヌさんに出会うことで、ロンドンで仕事に明け暮れ、忘れかけていた時計への情熱に再び火が付いたのを感じました」


翌05年、F.P. ジュルヌがクロノメーター・スヴランを発表したことも、Lさんの時計愛に拍車をかけた。香港にF.P. ジュルヌのブティックができる1年前のことだ。クロノメーター・スヴランに魅せられた彼は、東京ブティックで発売された20本限定の東京ブティック限定モデルを買った。4年後に東京でジュルヌ氏と再会した際は、かねてから気になり、焦がれていたオクタ・カレンダーも購入し、ますますF.P. ジュルヌとの関係を深めた。
「初めて父に買ってもらった時計がフランスを象徴するカルティエであったように、再び高級時計への情熱に火を付けたF.P.ジュルヌも、本社はジュネーブですが、ジュルヌさん自身はフランス人です。彼とはフランス語で会話できるのも、私にとっては故郷に帰ったような安心感を与えてくれます。彼が手掛けるクロノメーター・スヴランも、グランソヌリも、そしてサンティグラフも、彼の時計には常に革新的な〝何か〞が込められている。きっとそれが私を惹き付けてやまないのでしょう」


ロンドンから香港へ帰国した後は、ITを中心にビジネスを展開してきたというLさん。だが2009年、新たな時計専門誌の立ち上げに誘われて参画し、今に至る。
「時計を仕事にするようになってからは、かえって、時計選びが難しくなりました。いつも新作を見ているため、つい先へ先へと視線と想いが移っていってしまうから。ただ、仕事を抜きにしてひとつ言えることは、私のコレクションの中からたったひとつだけ時計を選ぶとしたら、それはIWCのドッペル・クロノグラフです。これは父が亡くなる直前、最後に私にプレゼントしてくれた時計だからです」