パテック フィリップが好例を示す「弾性」、困難から立ち直る力

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2022.03.23

「弾性(=レジリエンス)」。科学的には、弾性とは物理学における数値(平方センチメートルあたりに対しジュールで表される)で、金属の衝撃や破損に対する耐性を示すものである。さらに広義では「困難から迅速に立ち直る力」を意味する際にも用いられる。この性質をパテック フィリップは、長い歴史を通して何度も見せてきた。今回はその事例の幾つかを簡潔に挙げてみよう。

フィリップ・スターン,ティエリー・スターン

2009年、パテック フィリップ・シールの導入を記念して撮影された、フィリップ・スターンとティエリー・スターンのポートレート。
Originally published on EUROPA STAR
Text by Pierre Maillard
2022年3月23日掲載記事

2020年 - 動乱と断絶

「我々は絶えず適応し、前提に対し疑い続ける必要がある。それは昨日まで正しく思えたことが、今日はそうではない可能性があるからだ」と2020年4月14日にパテック フィリップ社長のティエリー・スターンは語った。パテック フィリップが、1932年から90年近くにもわたって参加してきたバーゼルワールドから離脱すると表明した際だ。

 ほぼ1世紀にわたって「正しかった」ことが、既にそうではない。解体、そして(物理学の例えを続けるなら)弾性の喪失が危険なほど近くにあった。そこでパテック フィリップはすべてを変えるというリスクを取り、バーゼルを離れ、その年の大規模展覧会(2021年4月開催)のために自らのホームタウンに戻ることにした。

グレーブス・ウォッチ

1932年に『スイス・ウォッチ・ジャーナル』で取り上げられた、当時はまだその名で知られていなかった「グレーブス・ウォッチ」。

 この決定は、1939年からバーゼルに参加しているやはり突出した弾性のあるブランド、ロレックスとの共同決定であり、これは長い歴史において重要な要素であった弾性を最も新しく表現したものと読み取ることができる。「弾性(=レジリエンス)」の定義を一般化した心理学者、ボリス・シリュルニクはこう説明している。「崖っぷちに立つと、弾性のある人は垂直方向のルートを模索する。そしてどこに峡谷の縁があるのかを思い出しながら、新しいルートを作り出す」。

 つまり弾性とは、記憶すること、そしてその記憶に基づき新しい道を切り拓くことを意味する。弾性に必要なのは、(無謀とは異なる)大胆さ、予見能力、そして創造性だ。

 多くの人を驚かせたパテック フィリップによるバーゼルワールド離脱について、その背景にある事実的理由をここで検証するつもりはない。単純に弾性とは外的な逆境に対して行動を起こす能力であり、変化を受け入れる力であるということを心に留めておきたい。この適応性は、先見性と適切な勇気を要する。なぜなら新しい道を模索するということは、未知の領域に足を踏み入れることだからである。

 逆境とは、スイス時計業界が、そして特にパテック フィリップが1983年までさかのぼる長い歴史の中で知り尽くしてきたものである。ブランドの歴史すべてを振り返るよりも、その事例の幾つかを簡潔に挙げてみよう。20世紀から21世紀にかけて衝撃を吸収し、前進し続けてきたその能力を。1932年にスターン一族が舞台に登場したところから始めてみよう。


1932年 - 大恐慌の渦中において

 1932年、ジュネーブで文字盤製造業を営んでいたスターン一族がパテック フィリップの買収に乗り出したとき、スイスを代表する時計ブランドと言われていたパテック フィリップは悲惨な困窮状態にあった。1929年の株式市場の大暴落で業績が悪化していたのである。

 ニューヨークから取締役会に提出された報告書にはこう綴られている。「一般的には安定している秋のビジネスは、10月にニューヨークで起きた株式市場大暴落によって完全に麻痺してしまっており、その影響はすべての市場に及んでいる」。

 当時のパテック フィリップにとってアメリカ市場は非常に重要なものであり、その後に起こった世界恐慌は問題をさらに悪化させることになった。ブランドの評価は特にアメリカで高く、それはその2年前の1927年に世界で最も複雑な時計が、自動車製造会社の創業者ジェームス・ウォード・パッカードのために納品されたことにも起因していた。

Ref.96

カラトラバの祖とされる、1932年に発表された「Ref.96」。

 スターン一族がパテック フィリップの舵を取るようになった時、パッカードを凌ぐ24の複雑機構を備えた時計、有名な「グレーブス・ウォッチ」はほぼ完成していた。世界的な景気減速状態の真っ只中にこのようなビジネスを取り上げるのは、まさに弾性に賭けるようなものである。ジャンとシャルル・スターン兄弟の直感と、創造的なこの「新しい道」に対する自信が、物事を軌道に乗せたのである。

 プレステージ性のある作品や高級懐中時計の製作の他に、経営陣は当時成長傾向にあった腕時計作りにも着手していた。しかし、その頃の腕時計は品質が低く、一般的に外注ムーブメントを採用していた。

 新オーナーの最初の決断は、ブランドをぬかるみの轍から抜け出させるための将来の展望だった。新しい経営陣を組織し、古い在庫にあった何百本もの時計を溶かし、流行に合わせたスマートなラインのモデルを作り出し、広報宣伝を見直し、停滞していたアメリカ・ブラジル・アルゼンチン市場と距離を置き、さまざまな市場に目を向けてヨーロッパに投資をした。そして製造工程を再編・整備・更新し、生産自体を見直して最高品質のみに照準を合わせ、ムーブメントの内製化を実現した。腕時計に多額の投資を行い、定評のあった複雑時計を搭載できることを外部にアピールしたのだった。

ドーム・テーブルクロック

エナメルが施された貴重なドーム・テーブルクロック。

 この技術的、審美的な新たな出発を見事に表現しているのが、後にカラトラバとして知られるRef.96である。この時計について更なる補足はいるまい。弾性の申し子、「アイコンの中のアイコン」。1932年に世に送り出され、今日でも究極のリファレンスとしての位置を確立している。


1965年 - 記憶の重要性

 前述したように弾性のある人というのは、過去の道を思い出しながら、新しい道を辿らねばならない。それは現在のパテック フィリップの名誉会長であるフィリップ・スターンが2018年にヨーロッパスターとの対談の中で語ったことでもある。

「1965年頃、私たちは100個以上のドーム・テーブルクロックの在庫を持っていました。もう誰も買ってくれませんでしたが、私たちは作り続けました。何よりも重要だったのは、それを作る専門技術の保全でした。当時エナメルを施す職人がほとんどいませんでしたが、私たちはエナメル職人に仕事を与え続け、彼らの"秘密"が失われないようにしていたのです。今となっては、このような決断を下していたことを喜ばしく思います。ドーム・テーブルクロックは再び脚光を浴びているのです。50年以上前に誰がそれを予見したでしょうか?」

フィリップ・スターンとアンリ・スターン

1989年のアンリ・スターン及びフィリップ・スターン。

 弾性を持つということは、過去を放棄することではなく、むしろその反対であろう。

「遺産が生き続けるためには、それを維持する必要があります。技術とノウハウが世代を超えて受け継がれることで、たとえある種の技術が時代遅れで何の役にも立たないように見えても、それを守ることができるのです。結局のところ、誰にもそれがある日復活するかどうかは分からないわけですから」。

 ヴィンテージウォッチへの関心が高まっている今、フィリップ・スターンの言葉は響くものがある。多くの時計ブランドや工房が、不必要とみなした書類や設計図、部品や工具を捨てたことを後悔し、今になって熱い需要がある忘れ去られた知識を躍起になって追い求めているのだ。

 しかし、このような弾性には資源が必要である。投資が必要であるし、その投資に対して見返りを求めてはいけない。パテック フィリップのアフターセールス部門は、古い部品も含めたすべての部品を徹底的に保管し、リストに掲載し、記録として残しているのだ。その多くは使われることはないかもしれないが、将来どうなるかは誰にも分からない。


1974年 - 独立の表明

 1974年、パテック フィリップは独立声明を準備し、それをすべてのリテーラーに送付した。「スイスの時計業界、そしてジュエラーと主要な時計サプライヤーの関係に変化が起きている。私たちパテック フィリップは、進行しつつあるスイス時計業界の『再編』とは関係性を持たず、また考慮もしないファミリービジネスとしての独立性を改めて表明する」というものであった。

 この独立宣言はスイスの時計業界がその後数十年にもわたる動乱の時期を迎えようとしていた、まさにその時に先見の明をもって発表された。当時は「SSIH」や「ASUAG」などの大きなコングロマリットが市場を席捲し、エントリーレベルの機械式時計で覆い尽くしていた。まさに1974年、スイスからの輸出量は歴史上でも最も高い8440万本に達していた。そしてその後この数字は3020万本まで減少したのである。

 経営史研究者のピエール=イヴ・ドンゼはこう説明する。「1960年代、スイスの時計メーカーは大量生産に適応していたがロレックスは例外であり、高品質の商品に対し、この生産方法を採用していなかった。

 生産が合理化されていない高級時計と、大量生産されるローエンドの時計という2分化が進んでいた。大量生産と高品質、このふたつのコンセプトの融合によって、スイスに対する明晰な挑戦者として世界市場に足がかりをつかんできたのが日本のメーカーだった」。

 そしてクォーツウォッチの到来が、その前にすべてを薙ぎ払うことになる。

キャリバー89

33の複雑機能を搭載するグランド・コンプリケーションで、複雑機能の最多記録を誇るキャリバー 89。

 フィリップ・スターンは自身の声明において、独立性を保つことを繰り返すだけでなく、「高級で価値のある手仕上げの製品に厳格に基づく」方針を貫くことを約束していた。

 これを達成するには、会社全体を再編成し、合理化を図り、機械を更新し、会社の伝統的な価値を維持しながら、近代的な機械式ムーブメントの生産に大きな資本投下をする必要があった。水面下の調整は膨大なものとなり、非常に挑戦的な状況の中で遂行されていった。彼自身も、「当時、誰もが機械式時計は瀕死の状況だと思っていた。悲惨な状況で、価値を見出すことができずにいた。それは世界規模で起こっていて、世界全体がクォーツ時計に転換しようとしていた」と認めている。

 1980年代半ばに起こった高級機械式時計の復活により、彼の正しさが証明されることになる。1989年、パテック フィリップはその見事な手腕によって、独立150周年を祝うことができた。アメリカ時計協会より130万ドルで買い戻されたパッカードの他に、33の複雑機構と24本の針、1728点の部品を備えた、製作当時世界で最も複雑な時計であった「キャリバー 89」を展示したのである。これにより、グランド・コンプリケーション搭載腕時計のアニバーサリーコレクションに人々の耳目が集まった。

 キャリバー 89の開発には9年の歳月が費やされた。弾性は時間、労力の投資、財務資本にも関係している。これについては、次の「弾性ある」決断が示している。


1990年 – 未来の構築

 ボリス・シリュルニクの言葉を引用して前述したように、弾性のある人は「新しい道を切り拓く」。1989年にパテック フィリップは150周年を祝い、キャリバー 89を世に送り出すことにより大きな道への糸口を開いた。しかしフィリップ・スターンはまだリスクがあると語っていた。「パテック フィリップはコレクターの為だけのブランドであってはならない。現代化を進め、私たちの製品がどこの小売店でも手に入るようにしなければならないのです」。

ヨーロッパスター

プラン・レ・ワットに建設された、新しいパテック フィリップの社屋の公式オープニングに先立つプレゼンテーション。ヨーロッパスター1996年3月号より。

 更に深いところでは、21世紀を目前にして、ビジネスの独立性を保つことも重要な課題であり、そのためには建物が必要だった。当時、パテック フィリップの事務所と工房はジュネーブ市全体に点在していた。

 それらすべてをひとつ屋根の下に集め、新しい機械設備を備えた広大なマニュファクチュールを作ることが決定された。これは各部門のコミュニケーションを円滑にし、伝統的な技術を現代的に実践するという意図があり、結果として少しずつではあっても生産本数を増やすことにつながっていった。

 必要な投資額は1億2500スイスフランと巨額であり、当時の年間売上に匹敵するものであった。

ヨーロッパスター

新しい工場のオープニングを祝い、パテック フィリップは1940年代のデザインにインスパイアされたゴンドーロを発表。1997年2月号のヨーロッパスターではこれが表紙を飾り、背景には工場の一部を採用した。

 選ばれた場所はジュネーブ郊外のプラン・レ・ワットだ。その土地選びと購入は一筋縄ではいかず、政治関係者も関与してきた。

 それでも7年後の1997年、17万平方メートルの敷地に、当時620人の従業員で年間2万本の時計を生産する工場が正式に完成した。スイス時計産業の復興の原動力となったのである。これは弾性が前に進む力ともなり得ることを示す一例である。


1999年 - 人生の学校

 弾性とはまた学ぶことであり、知識を伝えることでもある。1999年にヨーロッパスターは、まだ30歳にもなっていないが将来的には家族経営の会社を継ぐと目されていたティエリー・スターンと対談する機会を得た(彼はその10年後の2009年に社長となる)。そこでティエリー・スターンに、それまでのキャリアについて尋ねた。当時、デザインクリエーション部の部長を務めていた彼は、実に素直で正直だった。

 ビジネススクールへの参加経験や、MBAの資格を保持しているのかについて問うと、ティエリー・スターンは笑い出した。そのようなやり方でなく、彼のプロフェッショナルになるためのキャリアは昔ながらの徒弟制度のようなもので、現場で学び、手を汚し、日々の仕事に没頭するものだった。

 そしてスイスの時計産業の中でも最も恵まれた環境に生まれたことが、いかに幸運であったということを彼はすぐに認めた。しかし、自分がこの特別な「定め」に値する人間であることを彼は示さねばならなかった。

「もし自分がふさわしくなければ、この位置に留まります」とティエリーは控えめに認めた。「会社はエグゼクティブ・ディレクターを任命できる」。

 これもまた、弾性の鍵ではないだろうか? 自分の立ち位置を知り、自身の能力に正直であることが。

ヨーロッパスター

1999年刊行のヨーロッパスターに掲載されたティエリー・スターンのインタビュー「気取らない相続人」。

 明らかに昔ながらの徒弟制度で、ティエリーは地に足をしっかりと着けることとなった。彼はさまざまなことを少しずつ経験していった。ドイツのショップでお客様のためにドアを開けること、小包の配達、ジュネーブの時計学校での授業、時計のクリーニング、ニューヨークの支店に勤務して米国のすべてのリテーラーに会うことなどである。そしてアフターセールス部門の管理や、新しいコンピューター制御の機械の使い方、ベネルクス地方のマーケティング責任者などを担当したのち、本社へ戻りデザイン&クリエーション部門の合理化とデジタル化を図った。

 ボリス・シリュルニクは、それこそが最善の方法だと語っている。「良い価値を伝えれば、それを受け取るものにとって、それは遺伝的なものよりもはるかに素晴らしいものとなる」。この「人生の学校」方式は、画一的な卒業生を生み出していく大きな国際ビジネススクールの抽象的で理論的、かつ孤立したアプローチとは大きく異なり、私たちの社会の歴史上、何度も吹き付けてくる逆風に耐える力を与えてくれる。そしてこの上なく繊細な時計業界の歴史において、勇気と適切な感覚、そして実用主義をもって立ち向かう能力を与えてくれるのだ。


2020年、そしてその先

 未曾有の嵐が吹き抜ける現代においては、これらの資質と価値が、弾性を築き上げる礎となっている。

 パテック フィリップの計画的な弾性の最後の実施例は、現在の工房の傍に建てた新しい建築物である。ここは研究開発を推進させると同時に、エナメル加工など時計製造に関連する古く伝統的な工芸を保存することを目的としている。この決定は2015年に為され、約6億スイスフランという巨大な投資を伴い、すべて自己資金で行われている(フィリップ・スターンは「私の最後の決断」と語っていた)。それは、またしても驚くほど大胆な未来への賭けだった。時計産業は、これから先の不確実な時代において、このような賭けを必要としているのである。

 パテック フィリップとその数々の苦難についてもっと知りたければ、ニコラス・フォークス著『Patek Philippe, The Authorized Biography』(544ページ、1400図版。2016年Preface刊行、Penguin Random House印刷。220スイスフラン)という素晴らしい、記念碑的な本を読んでみてほしい。英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、日本語、簡体字中国語版がある。

パテック フィリップ

2020年に完成した、パテック フィリップの新社屋。

Contact info:パテック フィリップ ジャパン・インフォメーションセンター Tel.03-3255-8109


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