カシオの代表取締役社長 CEO交代人事の意味を読み解く! 時計事業はさらに盤石かつ魅力的に!

2023年2月27日午後、カシオ計算機は4月1日付の代表取締役社長 CEOの交代人事を突如発表した。
新たに就任するのは、現在は専務執行役員 時計BU(ビジネスユニット)事業部長の増田裕一(ますだ・ゆういち)氏だ。カシオで初の創業家以外からのトップ就任にのみフォーカスして新聞や経済メディアは報じている。

だが、1990年代からカシオの現場取材を続けてきた筆者には、その報道はピント外れだと思う。では今回の社長交代では、どこにピントを合わせるべきか? このトップ人事の意味を読み解きたい。

渋谷ヤスヒト:取材・文 Text by Yasuhito Shibuya
(2023年3月5日掲載記事)


社名は「計算機」だが……

「カシオ」は正式な社名を「カシオ計算機」という。なぜこの社名なのか?

 それは同社がもともと電子式計算機の事業で成功・発展した会社だからだ。ルーツとなる、日本の敗戦翌年の1946年に創立された会社の社名は樫尾製作所。そして1949年、東京・銀座で開かれた第1回ビジネスショーで外国製の電動計算機を目にした樫尾忠雄、俊雄の兄弟は、その開発を決意。そしてふたりの弟、和雄、幸雄も参加した4人の兄弟は1957年、リレーを使った世界初の小型純電気式計算機「14-A」を製品化。ここから発展した電子式の計算機を世界市場でも販売することで、カシオは世界的企業へと大成長を遂げる。

1957年、樫尾忠雄・俊雄・和雄・幸雄の樫尾4兄弟は、次男の俊雄を中心に、世界初の小型純電気式計算機「14-A」を開発。同年、カシオ計算機株式会社を設立した。

 大人から子供まで誰もが知る存在になったのは、1972年8月、世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」を発売したこと。発売10カ月で100万台を販売したこの電卓の登場を、当時小学生5年生だった筆者は鮮明に憶えている。担任のI先生が「買ったぞ!」と教室で見せてくれたからだ。社名とこの歴史から、今も60代以上の人の中にはカシオは「電卓など計算機の会社」だというイメージを持つ人も少なくない。

 確かに関数電卓などは今も基幹製品のひとつだ。また民生用からは2018年に撤退したが、1995年に世界初の液晶モニター付き民生用デジタルカメラ「QV-10」を開発・発売してデジタルカメラを一気にパーソナルでメジャーな存在にしたのもカシオの忘れられない功績だ。

1974年11月、カシオ計算機が初めて発売した腕時計「カシオトロン QW02」。「完全自動腕時計」という開発思想の下、時・分・秒の表示だけでなく、大の月・小の月を自動的に判別する世界初のオートカレンダーを搭載したクォーツ式デジタル腕時計として誕生した。その後、閏年の2月29日まで自動判別を可能にしたフルオートカレンダーの腕時計も実現した。

 しかし、現在のカシオは総売上高の約60%が時計事業によるもので、営業利益の大部分も時計事業によるもの。電卓市場でトップだった1974年11月に第1号モデル「カシオトロン QW02」からスタートした時計事業が、現在はカシオのコアビジネスになっている。つまり現在のカシオは、何よりもまず「時計の会社」なのである。


入社以来、時計事業ひと筋

 そして2023年4月1日から代表取締役社長 CEOに就任が決まった増田裕一氏は1978年3月に慶應義塾大学工学部を卒業、同4月にカシオ計算機に入社以来、時計事業一筋に歩んできた人。「G-SHOCKの生みの親」である伊部菊雄氏の2年後輩で、1983年に誕生した伝説の初代「G-SHOCK」の商品企画を担当し、G-SHOCKを時計業界でもライバルの存在しないオンリーワンブランドに成長させた立役者だ。つまり「G-SHOCKの育ての親」である。

カシオ計算機の代表取締役社長 CEO交代の記者会見は2023年2月27日(月)17時30分から行われた。写真左が、4月1日から新たに同社代表取締役会長に就任する樫尾和宏氏(前職は代表取締役社長 CEO)。写真右が同日付で新たに同社代表取締役社長 CEOに就任する増田裕一氏(前職は専務執行役員 時計BU事業部長)。

 さらに増田氏はG-SHOCKばかりでなく、カシオの時計事業全体を見事な戦略でコアビジネスに育て上げた中心人物でもある。大きな転機は、最初のG-SHOCKブームの終焉だ。2001年には時計事業の売上高がピーク時の1/3、赤字スレスレの状況に陥った。その時に「デジタルからアナログへ」「樹脂からフルメタルへ」、さらに「リストギアからリストウォッチへ」という、大胆な製品戦略の転換を主導したのも増田氏だった。

増田裕一氏が商品企画を担当し、1983年に誕生した初代G-SHOCK「DW-5000C」。「G-SHOCKの生みの親」である伊部菊雄氏を中心に結成されたプロジェクトチーム「Tough」によって耐衝撃腕時計として開発された。当時、精密機械である腕時計は衝撃や水に弱いというイメージが強かった。そこでToughは、時計モジュールをパッキンで支え、ケース内で浮遊させる「中空ケース」を考案し、そのイメージを払拭することに成功した。