ここ10年で大きく成熟した高級時計市場。牽引の担い手となったのは、2015年頃から始まったラグジュアリースポーツウォッチの一大ブームだった。質的な拡大を経て、いま目利きの時計愛好家たちは、ファッション性よりも未来に残る時計に関心をシフトさせている。ではどんな時計が未来の時計遺産たり得るのか? 著名なジャーナリストによる特別寄稿と、識者たちへの聞き取りで、過去と未来を繋ぐマスターピースの条件を浮き彫りにする。
Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas)
バヌー・チョプラ:文
Text by Bhanu Chopra
Edited by Yuto Hosoda (Chronos-Japan), Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2024年9月号掲載記事]
バヌー・チョプラが語る「今と昔、IWCの『インヂュニア』」
ダイナミックな時計製造の領域において、革新的かつ卓越したデザインで不朽の象徴となる作品がある。IWCの「インヂュニア SL」は1970年代に、先見の明を持つジェラルド・ジェンタによってデザインされ、時計史にその名を刻んだ傑作のひとつだ。

『Revolution USA』編集長。『WatchUSeek』のシニアエディターや『Quill & Pad』といったオンラインの時計メディアにてフリーライターを務めたのち、現職。その博識ぶりかつ、まっとうな語り口にはファンが多い。『クロノス日本版』では第100号の巻頭特集にて寄稿歴あり。
1950年代に発表された「インヂュニア」の初期モデル、Ref.666と866は、民生用腕時計として初めて本格的な耐磁性を備えるという技術的な優位性とは対照的に、控えめなラウンドケースを採用していた。1969年、IWCはクォーツ革命によって機械式時計に逆風が強まる中、ジェラルド・ジェンタに「インヂュニア」に新たな息吹を吹き込むよう依頼した。
1974年、この先進的なデザイナーはスケッチを提出し、ステンレススティール製ブレスレットとパターン文字盤を備えた印象的な時計を提案した。5つの窪みを持つねじ込み式ベゼルが、ジェンタの創作であることを強く主張していた。
1976年、IWCは「インヂュニア SL」(Ref.1832)を世界に向けて発表した。直径40mmという大型のケースサイズから“ジャンボ”と呼ばれたこのタイムピースは、瞬く間に注目を集めることとなった。自動巻きCal.8541を搭載し、最適な耐衝撃性を実現するラバー・バッファーを備え、最大8万A/mの磁場からムーブメントを保護する軟鉄製インナーケースを持ったインヂュニア SLは、まさに時計製造のヘビー級モデルであった。
発売当時の価格は2000スイスフランと高価だったインヂュニア SLは、頑丈でありながらエレガントなスティール製スポーツウォッチというジェンタのビジョンを具現化したモデルだった。アイコニックなスクリューオンベゼル、ユニークなパターンを持つ文字盤、Hリンクを持つ一体型ブレスレットなど、その強烈な美的コードは、この時計がジェラルド・ジェンタの最も重要な作品のひとつであることを確固たるものにした。
「インヂュニア SL」の不朽の魅力は、ジェラルド・ジェンタの芸術的シグネチャーとも言える、その力強い美的コードにある。その革新的なデザイン言語と技術力にもかかわらず、インヂュニア SLは当初、商業的な成功を収めるのに苦労した。現代の基準からすると大きすぎたサイズと重さは、よりスリムなクォーツ時計を好む顧客層には響かなかったのだ。

1976年にジェラルド・ジェンタのデザインで発表された、通称“ジャンボ”。搭載されるCal.8541は厚さが5.9mmあるのに加え、耐磁性能を得るためインナーケースに収める必要があり、厚い時計となることは避けられなかった。しかし薄型時計のデザインに長けたジェンタはミドルケースを湾曲させることで、視覚的に厚みを感じさせない作りを完成させた。
その結果、1976年から1983年にかけて、同作は約1000本しか販売されていない。しかし、「インヂュニア SL」の運命は、1990年代にコレクターがそのユニークな美的センスと歴史的意義を高く評価し始はじめたことで、目覚ましい変化を遂げた。今日、〝ジャンボ〞は、IWCの輝かしい歴史の中で最も人気の高いタイムピースのひとつであり、ジェンタの先見的なデザインの象徴となっている。
「インヂュニア・オートマティック40」は、オリジナルのインヂュニア SLにオマージュを捧げながら、現代的な要素を取り入れることで、現代にふさわしい腕時計に仕上がっている。ウォッチズ&ワンダーズ 2023の期間中、IWCのクリストフ・グランジェ・ヘアCEOは、「1970年代にジェラルド・ジェンタが製作したジャンボにインスピレーションを得ながら、人間工学に基づいたケースプロポーションを生み出しました。細部に至るまでハイレベルな仕上げを施し、新しい自動巻きムーブメントの製作にも多くの時間と労力を費やしました」と語っている。
新しい「インヂュニア・オートマティック40」は、21世紀の万能ラグジュアリースポーツウォッチだ。40mmのケース直径は理想的なサイズであり、近年市場を席巻している大型スポーツウォッチのトレンドとは一線を画している。12時側から6時側のラグからラグまでの距離は45.7mm、人間工学に基づいた設計によって、多くの人の手首サイズに対応する優れた装着感を実現した。ケース、ベゼル、ブレスレットは、ポリッシュ仕上げとサテン仕上げを組み合わせた丁寧な仕上げが目を引く。
インヂュニア SLからの最も顕著な変更点のひとつは、ベゼルに機能的な多角形のネジが採用されたことだ。5本のネジがベゼルをケースに固定し、技術的な機能を果たすとともに、常に同じ位置に固定されるようになった。さらに文字盤には特徴的なグリッドパターンが採用され、亜鉛メッキ処理前の軟鉄製ブランクに型押しされることで、彫刻的なケースデザインとのバランスを生み出している。また、3時位置の日付表示は、スポーツウォッチのデザインに実用的な要素を加えている。

ジェンタ デザインに回帰した新型インヂュニア。ヴァル フルリエベースのCal.32111を軟鉄製のインナーケースで包むことで、実用的な耐磁性能を得ている。自動巻き(Cal.32111)。21石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約120時間。SSケース(直径40mm、厚さ10.7mm)。10気圧防水。ブティック限定。(問)IWC Tel.0120-05-1868
IWCでデザイン責任者を務めるクリスチャン・クヌープは、文字盤のデザインについて次のように説明する。
「Ref.1832と同様、インヂュニア・オートマティック40の文字盤は私たちが現在、グリッドと呼んでいる構造を備えています。このパターンは、互いに90度オフセットしたラインで構成され、亜鉛メッキを施す前の軟鉄製ブランクに刻印されています。これは文字盤の内側全体を覆っていますが、チャプターリング周辺の外側は滑らかなままです。また、IWCのロゴのプロポーションや文字盤上の位置、グリッドとの位置関係を1000分の1mm単位で丹念に調整しました。最後に、蓄光塗料を塗布したアプライドインデックスは、夜間でも優れた視認性を確保します」
インヂュニア・オートマティック40はねじ込み式リュウズを備えており、リュウズガードで保護されている。これにより、時刻や日付が意図せず動かされてしまうことを防ぐことができる。
ムーブメントにはマジッククリックによる自動巻き上げを備えるCal.32111が採用される。また、ムーブメントの精度を磁場の影響から効率的に保護する軟鉄製インナーケースも、インヂュニアが長きにわたって持ち続ける特徴だ。防水性能は100mと必要十分で、スポーツウォッチとして多目的に使用が可能である。
インヂュニア・オートマティック40には4つのバリエーションがあり、3つはステンレススティール製ケースの文字盤カラーバリエーション、そして残りひとつはグレード5チタン製ケースが採用される。スティールケースモデルの文字盤カラーはブラック、シルバー、アクアブルーの3色で、いずれもバタフライ・フォールディング・クラスプ付きステンレススティール製ブレスレットが付属する。そしてグレード5のチタンケースモデルでは、グレーの文字盤にブラックの針とアプライドインデックス、そしてバタフライ・フォールディング・クラスプ付きチタン製ブレスレットを特徴としている。
IWCは1980年代から1990年代にかけて、チタンに関する豊富な専門知識を蓄積してきた。GSTシリーズ(ゴールド、スティール、チタン)を思い返して欲しい。新しいインヂュニアのチタン製ケースとブレスレットは、サンドブラスト仕上げ、サテン仕上げ、ポリッシュ仕上げが施されている。






