パテック フィリップRef.5016Pが相次いで高額落札。その価値を決めた「個体差」とは?

2026.08.19

パテック フィリップの「グランド・コンプリケーション」Ref.5016Pが、ボナムズ香港のオークションで相次いで高額落札された。2025年11月には未開封状態のホワイト文字盤、26年5月には稀有な仕様を持つブラック文字盤が、それぞれコレクターの注目を集めた。同じリファレンスでありながら、評価された理由は大きく異なる。そこから見えてくるのは、現代のオークション市場において、単なるモデルの稀少性だけではなく、コンディションや仕様といった「個体差」がますます重要になっているという事実だ。2本のRef.5016Pを通して、ハイエンドウォッチの価値を左右する「唯一性」の正体をひもとく。

シャロン・チャン

シャロン・チャン(ボナムズ香港):文
Text by Sharon Chan(Bonhams Hong Kong)
[2026年8月19日掲載記事]

喧騒から離れた世界で響く「極致の音」

 香港における「賑やかさ」の定義は人それぞれだ。中環のバーでの喧騒かもしれないし、ラッシュ時の八達通(オクトパスカード)の電子音かもしれない。しかし、より静かで洗練された世界において、時計コレクターたちが心から共鳴するのは、微細にして魅力的な「ディン、ディン、ディン」という音だ。これはコレクターの間で交わされるユーモアを交えた表現であり、時計製造技術の最高峰のひとつ、ミニッツリピーターを指す。

 1990年代に誕生したパテック フィリップの「グランド・コンプリケーション」Ref.5016は、ミニッツリピーター、トゥールビヨン、パーペチュアルカレンダーという3つの複雑機構を統合した、同ブランドを代表するグランド・コンプリケーションのひとつだ。

 ミニッツリピーターは詩的な響きを持つが、その背後には複雑な機械工学が存在する。ハンマーとゴングはひとつひとつ手作業で調整する必要があり、生産数もおのずと限られてしまう。Ref.5016全体の総生産数はわずか数百本、中でもプラチナ仕様のRef.5016Pはとても少ないとされている。コレクターにとって、それは単なる腕時計ではなく、高度な時計製造技術と歴史を内包した特別な存在だ。

ホワイト文字盤とブラック文字盤、ふたつのRef.5016Pが示す「唯一性」

 2025年11月、ボナムズ香港のオークションにホワイト文字盤を備えたRef.5016P-010が出品された。この個体の最大の魅力は、そのコンディションにあった。出荷時から一度も開封されていない状態を保っていたのである。

 着用による経年変化はもちろん、メンテナンスの痕跡すらなく、当時のパッケージが残された個体は極めて稀だ。まるで時間そのものが止まっていたかのような状態がコレクターの関心を集め、最終的には698万9000香港ドル(約1億4180万6810円、1香港ドル=20.29円、26年8月14日現在、バイヤーズプレミアム含む、以下同)で落札された。

パテック フィリップ「グランド・コンプリケーション」Ref.5016P-010

パテック フィリップ「グランド・コンプリケーション」Ref.5016P-010
手巻き(Cal.R TO 27 PS QR)。28石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。Ptケース(直径37mm)。698万9000香港ドル(約1億4180万6810円)にて落札された。

 一方、その1シーズン後となる26年5月31日のオークションには、ブラック文字盤を備えたRef.5016P-018が登場。この個体は889万4000香港ドル(約1億8045万9260円)で落札され、Ref.5016Pの世界オークション記録を更新した。


パテック フィリップ「グランド・コンプリケーション」Ref.5016P-018

パテック フィリップ「グランド・コンプリケーション」Ref.5016P-018
手巻き(Cal.R TO 27 PS QR)。28石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。Ptケース(直径37mm)。889万4000香港ドル(約1億8045万9260円)にて落札された。

 この個体の特徴は、ブラック文字盤に加え、メーカー純正の蓄光塗料を塗布した時分針を備えている点にある。クラシカルなドレスウォッチとして仕立てられることの多いRef.5016において、こうした仕様は極めて異例だ。スポーティーな印象をもたらす時分針とブラック文字盤の組み合わせが、この腕時計をほかのRef.5016Pとは異なる存在にしている。

 Ref.5016Pは、それ自体が極めて稀少な腕時計だ。しかし、この2本の結果が示したのは、単にモデルの生産数が少ないというだけではない。ホワイト文字盤のRef.5016P-010には未開封という保存状態があり、ブラック文字盤のRef.5016P-018は極めて珍しい仕様のモデルである。それぞれに「その個体でなければならない理由」が存在していたのだ。

オークションが映し出す真の価値と香港市場の合理性

 オークショニアとして、この2本のRef.5016Pに自らハンマーを振り下ろした際、市場の鼓動を最もダイレクトに感じることができた。世間は往々にして天文学的な落札価格を「会場の熱狂が生んだ偶発的なもの」と捉えがちだ。しかし実際のところ、高価格帯の腕時計を購入するコレクターは極めて理性的である。

 この2本のRef.5016Pの結果は、現在の市場におけるひとつの重要な傾向を示していると言えるだろう。コレクターが重視しているのは、もはやブランド名だけではない。製造時の仕様や保存状態、来歴、そして同じものがほかに存在するのかといった、個々の腕時計が備える稀有な特徴がそれだ。加えて、代替することのできない独自性が、以前にも増して厳密に評価されるようになっている。

 ホワイト文字盤のRef.5016P-010では、未開封という純粋なコンディションが価値を押し上げた。他方、ブラック文字盤のRef.5016P-018では、その珍しい仕様が市場の注目を集めた。どちらも同じRef.5016Pでありながら、それぞれ異なる理由によってコレクターを引き付けている。

 2本のRef.5016Pが残した結果は、現在のコレクター市場において、「モデル」の価値だけではなく特定の「個体」が持つ価値が重要になるということを示している。要するに、他に類を見ない特徴を備えた腕時計は、一般的な市況とは別の軸で評価されるということだ。

 最後のハンマーが振り下ろされたとき、それは単なる取引の成立を意味するだけではない。その腕時計が持つ物語に、新たな1ページが加えられる瞬間でもある。

 そしてRef.5016の場合、その物語を象徴するのは、やはりあの聞き慣れた音なのだ。ディン、ディン、ディン、と。

著者「シャロン・チャン」プロフィール

 シャロン・チャンは、アジアにおけるボナムズ時計部門のディレクターである。香港を拠点に、アジア太平洋地域の事務所と密接に連携し、同部門が年に10回開催するオークションの監督を務めている。

シャロン・チャン

シャロン・チャン/ボナムズ香港 時計部門ディレクター
17年から18年にかけて、シャロン・チャンはウォッチディーラーおよびクライアントコンサルタントとして独立し、専門家としての地位を築いた。その後、ボナムズに入社してオークションビジネスに復帰。豊富な経験と幅広い人脈を生かし、世界中のコレクターと強いネットワークを築きながら、アジアの時計市場拡大において重要な役割を果たしている。

 これまで多くの国際的なオークションハウスでのジュエリーと時計のオークションビジネスにおいて、17年以上の経験を積み、11年から16年にかけては、香港で時計オークションを指揮。売り上げを年々拡大し、13年にはアジアでの時計販売で最高額を達成した。また、世界最大級のプライベートウォッチコレクションの監督責任者を務め、15年のオークションで600万USドルという新記録を打ち立てた。


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